礼拝2013年3月24日

2013年3月24日主日礼拝のメッセージ

棕櫚の聖日

マタイによる福音書21:5~11
「ドン・キホーテ!?」
今日から受難週に入り金曜日は受難日(キリストの十字架の日)、そして31日の日曜日にはキリストの復活祭(イースター)です。一週間前である今日はイエスキリストエルサレム入場の日、シュロの葉(左の写真)を引き詰めた道をイエス様が子ろばに乗って入場されたのです。
これは旧約聖書ゼカリヤ書9:9で出てくる預言の成就です。イエス様は入場するとき群衆が讚美する中、入場されます。これもまた詩篇118:22~27の成就なのです。
聖書によると(エペソ書1章)神様の御業は、万物が出来る前からキリストのあってすべて計画されていました。予言の成就とは計画が実施されたことなのです。聖書の「預言」というのは、「予言」ではありません。また当たる当たらないの占いでもありません。神様の計画予定が預言者を通して小出しに教えられているのです。極論を言えばこの世や人類がどうなるか神は既に決めておられるのです。子ろば、シュロの葉、群衆の賛美も、決められた計画であってその事がらがイエスをキリスト(=メシア=救世主)として証明する証拠になるのです。旧約聖書にはイエスをキリストとして証明する箇所は400箇所以上もあります。
しかし群衆は、イエスがメシア(キリスト)であって、十字架に掛かりに行くなど誰も思っていなかったはずです。逆にモーセのようにイエスラエルをローマ帝国の支配から逃れ、復興されると期待したのでしょう。群衆はイエス様の数ある奇跡のゆえに神の遣わされた指導者や預言者と見ていたのです。
普通、戦いに勇ましく行くなら、馬にまたがるシーンを想像するのですが、神の計画はロバだったです。人の生活道具として役立つ平和のロバ、それもまだ子どもで人に使われたことのないロバなのです。神は戦いで勝利を納めるために馬にまたがらず、敢えてロバで平和の救いを達成する為に入場されたのです。群衆はそのことに全く気付かず、イエス様のエルサレム入場に神を褒め称えたのです。弟子たちでさえわからなかったので、仕方ないです。この後、この群衆は「イエスを十字架につけよ」と豹変するのです。群集心理とは恐ろしいものですね。悪魔がこれを用いて人をコントロールするわけです。
群衆は本当の意味を知らずに讚美しており、1000年前(今から3000年前)の預言が成就しています。
詩篇の118:23には「これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」とあります。
今私たちは過去の結果が一望できるので、神の摂理の不思議さにただ驚きなのがわかりますがこの時は、誰も知らずに神の計画はイエス様を通して実行されていたのです。キリストの十字架の意味は知る人は未だに少ないのが事実ですが、この事実を知れば誰でも、イエス様を信じるなと言っても信じるでしょうね。そこは理屈でなくて聖霊差の働きなんですね。
私たちもいろんなところで愚かな様に思えたり、困難や艱難、苦難いろんな問題が押し寄せてきます。しかし、そこに神の計画や摂理が必ずあると信じれるなら、私たちはすべてクリアーできるはずなのです。ロバにまたがったイエス様は神の愛を現すための勇者なのです。受難に向かうロバのイエス様は真の勝利者なのです。「魂の命を獲得するために、肉の命を犠牲にする。」神の愛なのです。
肉の命が無くなっても魂を活かすことのできる神様の愛に全てを委ね、人の目からは愚かで不思議ですが、完璧である神に全てを委ねたいとあらためて思わされるシーンです。