礼拝2013年6月22日

2013年6月22日 主日礼拝のメッセージ
「神の安息に入ろう」                             
マタイによる福音書11:28~29
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

アナウンサーの辛坊治郎さんが転覆したヨットから救助されました。本当に良かったです。助けが来てくれるだろうか?死をも覚悟したと思います。「人知を尽くして天命を待つ」ということわざがありますが、もうどうにもならない時に、皆さんも一度や二度「神様助けて!」って心のなかで叫んだことが在るのではないでしょうか。これは人間が神様という存在の認識を潜在的にプログラムされているからだと思うのです。 そう言った絶体絶命な状況では無いにしても、手を尽くしたが何も変わらないと言って、人生に疲れを感じ、生きる望みを無くした人も、「神様~居られるなら私の悩み聞いてくださ~い」と心のなかで呟いたことがあると思います。私もまだ神様を知らない時に、「本当に神様が居られるなら、この願いを聞いてください。」と夜空に向かって呟いたことがあります。なんと、それは奇跡的に叶いました。今もその時の叶い(家内)は傍にあります。

神様の安息とは、休み、憩い、平穏、保護、助け、救い、慰め、回復、激励という事を含みます。安息の極みは神の国でありますが、現世においても、神の愛を体験できるということなのです。神は求める者に必ず答えてくださり、愛してくださっている事をわかるようにしてくださいます。この世であなたは「私は愛されている」と自信を持って言う相手が居られますか?親でも子を捨てる世の中です。そんな世の中でも神の愛は絶対に変わることが無いのです。神よりも強い人はいません。どんな人間でも強がり言って実は弱いものです。だからこそ強い神様の愛が必要なんです。強い方に愛されていることを知ることは強さと優しさを持つことができます。

この神様の愛に実際に触れ、休むことができるように約束してくださっています。誰でも神様の元に近づくなら、休みを得ることができるのです。この休みというのは先述した安息のことです。神に愛されていることの答えがあるのです。
まず心を神様に向ける事、祈り求める事です。必ず求める者には答えがあります。求めようとしない人にはけして答えはありません。私も昔は、神が愛なら、神様の方から現れてくれるだろう。それから信じようと傲慢に思ってましたが、もし神が居られるなら出会いたいと言う気持ちがありました。「こんな鈍感な私でも神様を知れるようにしてください」と一ヶ月毎日祈りました。それでも答えが無いのなら、もうやめようと思ってました。これが単なる宗教なら必要では無いからです。その結果、今は神様の為に働いています。

詩篇23篇1~3
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。 あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
いろんな困難な状況があろうとも神様が共に居てくださるので私は強くなれる、神様に愛されていると言う安息から、強さや優しさ、本当の愛が現れてくるのです。神様の言葉が本当かどうか実際に求めてみましょう。求める人は幸いです。