礼拝2013年10月6日

2013年10月6日のメッセージ
式年遷宮
先日伊勢神宮に置いて
神様(天照大神)のお引越しと言われる
式年遷宮が先日行われました。
右から左へと御神体(鏡)のお引越しですね。
20年に一度ということで大盛況ですね。
私も小さいころ伊勢の内宮に何度か行きましたが
五十鈴川の清らかさ、色とりどりの鯉達、
涼しい気配の木立の中を歩くのは心が清まる思いに
なった事を覚えております。
私が聖書の神様と日本の神様のスケールの違いを感じ
感動した御言葉がございます。
この世界と、その中にある万物とを造った神は、
天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
また、何か不足でもしておるかのように、
人の手によって仕えられる必要もない。
神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、
地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、
国土の境界を定めて下さったのである。
こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、
神を見いだせるようにして下さった。
事実、神はわれわれひとりびとりから
遠く離れておいでになるのではない。
われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。
あなたがたのある詩人たちも言ったように、
/『われわれも、確かにその子孫である』。
このように、われわれは神の子孫なのであるから、
神たる者を、人間の技巧や空想で
金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、
見なすべきではない。神は、このような無知の時代を、
これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、
みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、
お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。
すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、
その確証をすべての人に示されたのである」。
使徒行伝17:24 ~31
いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。
預言者が言っているとおりである、『主が仰せられる、/
どんな家をわたしのために建てるのか。
わたしのいこいの場所は、どれか。
天はわたしの王座、/地はわたしの足台である。
これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
使徒行伝7:48 ~50
この言葉にはびっくりしました。日本人はやたらと御神体とか、
仏像、仏壇等の崇拝対象をつくりますが、聖書はそれをしては
ならないと記しております。それが「モーセの十戒」の一部です。
日本の神様が
“人が造った神様”に対して
“人を造った神様”である聖書の神様は理にかなった事だと
納得いたしました。
日本人の宗教観では、
人が亡くなれば誰でも仏様と言い神様的存在で
先祖崇拝をします。これは本来の仏教では無いのです。
人は死んでも人なのです。崇拝対象にはなりません。
多くの日本人は何も知らずに「私は仏教徒です」と言います。
仏教の教えはどこまでも、自力本願で輪廻転生からの解脱です。
涅槃という極楽浄土に行く目的で、自分で修行をすれば仏に成れる。
解脱した人を成仏したといいます。しかしこれは釈迦が思いついた
思想であり約束や保証はありません。
真逆にキリスト教は、
キリストの十字架ゆえに罪赦され神の国に行けると言う
他力本願であり、その約束と保証をされた神の愛を信じる信仰です。
仏教には信じれば解脱できるという約束も保証もありません。
釈迦を信じても、釈迦は救いの約束をしておらず、
釈迦も、仏になるなんて何の確証も無くなったかどうかも
分かりません。釈迦の教えで行くと、日本人は誰も仏に成れません。
けして仏教批判をしているのではありません。
仏教を知らずに仏教を信じている日本人に対しての疑問です。
勿論、宗教としての仏教の教えは大変素晴らしい教えだと思います。
それに比べて、神は御子をこの世に計画通りに送り十字架で死なれ、
私達の罪の代わりに死なれて、朽ち無い体に蘇り、聖霊を
贈る約束までなさり、信じるもの誰でも神の国に救うという
約束をしてくださったのです。それを確証付ける証拠が、
世界の約30%の人が信じているゆえんなのです。
人が造った宗教とは全く違う。
素晴らしい神様の愛と救いの計画に感謝いたします。