礼拝2014年1月12日

2014年1月12日のメッセージ
真の礼拝者とは
真の礼拝者たちが霊とまことによって
父を礼拝する時が来ます。今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めて
おられるからです。
          
       ヨハネによる福音書4:23
この聖書の箇所はサマリヤの女性がイエスと
出会った時に女性が質問した時の答えなのです。
「本当はどこで礼拝をすればいいんですか?」
の答えは、場所は関係なく父を礼拝するときが
来ます。それは今です。と語られたのです。
サマリヤの井戸の前でそう語られたのです。
そこでイエスさまは真の礼拝者とは霊と誠に
よって父を礼拝するものを求めておられると言
われ、それが今来ていると言うのです。
このサマリヤの女性は罪人だとよく解釈されて
いますが、それはさておきこの女性は信仰が
あったのは確かなのです。キリストの到来を待
ち望み、それを分かるようにしてくださると信
じていたのです。その上に真の礼拝を捧げたか
った故あのような質問をしたと思われます。
ここで言う礼拝とはギリシャ語でプロスクネオ
で足元にひれ伏して謙ってキスをするような態
度の表現の意味です。心から真剣に神の前に出
ると言うことです。皆さんはどのように礼拝に
臨んでおられるでしょうか?私は礼拝の成功は
まず讃美と祈りにあると考えます。
また別の箇所では使徒パウロが礼拝の言語は、
ラトレイヤと言うギリシャ語で書かれておりま
すが、「仕えると」言う意味もあります。英語
では礼拝をサービスと言いますが、これはラテ
ン語のサーバス(召使いの意)から来ています。
礼拝者というのは、その時その時の礼拝の時間
に儀式に参加したら良いというものでは無くそ
のお方に仕える姿勢の人間を言います。もちろ
ん、礼拝そのものも神様に向かう大きな手段で
す。疎かにしてはいけません。しかし、決定的
に私たちの人生そのものが180度変えられて
しまうのです。生き様が全く変えられるのが礼
拝者になるのです。これが救われた者の姿勢に
なるわけです。
このサマリヤの女性はキリストと出会えると言
う念願を果たしたわけです。純粋なユダヤ人と
見られずにさげすまされたサマリヤ人もメシヤ
(ギリシャ語でキリスト)を待ち望み霊とまこ
とで真実に神の救いを待ち望んでいたのです。
果たして、このサマリヤの女性は真の礼拝者と
して成功し喜びに満たされたはずです。この女
性は喜びのあまり多くの人々にメシヤが来たの
だと伝えた回ったのです。
イエス様に出会うことは、待望の救い主に出会
うことであり、この喜びが真の礼拝者に変わる
のです。この世の全てにかけがえの無い価値を
得た喜びを黙っておれずに伝えるのです。
最後に使徒パウロはこう言います。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、
神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いし
ます。あなたがたのからだを、神に受け入れら
れる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
         ローマ人への手紙12:1
私たちは、生きるも死ぬも主の為なのです。何
人も神の法則から抜け出る事はできません。そ
れを悟りそこに自分の価値を見出せば真の礼拝
者として、父の戒めを守る者を父は更に祝福さ
れるのです。
戒めとは、
「私があなた方を愛したように、
 あなた方も互いに愛し合いなさい」
救われた礼拝者はまずこの戒めを守るのです。