礼拝2014年2月16日

2014年2月16日のメッセージ

「愛そうとする力が無い!」
私は神様をまだ知らなかった時
愛することは良いことだとわかっていても
愛する力、実行力がありませんでした。
ただ自分が生きるために、相手を大切にしな
いといけないとしか思っていませんでした。
しかし、神様を知るようになって愛すること
の大切さを知るようになりました。もちろん、
愛するとは誰であっても大切にすると言うこ
とです。男女の恋愛関係を超えるものです。
大げさですが自分を犠牲にして人のために愛
せるか?昔「愛と誠」と言うドラマがありま
したが若い青年は、愛する彼女のために、
「君のためなら死ねる」と言ったセリフを
今でも覚えております。死んだら、愛せない
じゃないか?と思った事があります。
人は命をかけて他人を愛せるか?そんな事は
綺麗事だと思っていました。関西の漫才風で
言うなら「そんなやつおらんやろ~」ですね。
私自身は、キリストを知る前は愛するなんて
みんな偽善者だ!必ずどこかに自分に利益が
あるはず。善を行う人には必ず裏で自分の利
益を計算しているものだと考えました。特に
私は商売をしておりましたので利益追求を求
めるために嫌な人でも頭を下げるのです。で
すので人に頭を下げるのは簡単にできる方で
した。しかしこれは業務上だったのですが慣
れてしまいますね。みなさんも、表面では近
所の人といい顔で挨拶するのに影では悪口言
ったり、批判したりしてないでしょうか?子
供がそれを聞くと同じように人を見下すよう
になりますので気をつけなくてはなりません。
また、自分の食べ物も無いのに、他人に分け
てあげられだろうか?自分の命が保証されな
いのに人の命を心配していられるか?自問自
答を繰り返すだけだったのです。
ドイツの哲学者エイリッヒフロムは言ました。
「その人が必要だから、その人を愛する。」
それは未熟であり、成熟した愛は
「その人を愛するから、その人を必要とする」
前者は自己利益の為の愛で、後者は相手を愛
するゆえに大切にすると言うのです。
私も、神を知らないときは前者の考え方だっ
たのでしょう。人を愛するのは自分の利益だ
けで図っていました。汚い自分に嫌気がさし
ますがみんな同じだと思っていました。
愛とは何か?実際、愛のお手本が無いのです。
しかし、神様は本当の愛を示してくださいま
した。それが御子イエスキリストをこの世に
送り、私たちの身代わりに死ぬために十字架
にかかりにこの世に肉体を取って来られたの
です。
わたしの事を命を捨てるまでして愛している
方がおられたのです。それが人の姿になって
来られた神であるイエスキリストなのです。
これを教会で教えられた時には、イエスキリ
ストとわたしが何の関係があるのか理解でき
ませんでしたが、ある時、キリストの絵を見
ていると「お前の為にも私は苦しんだんだ」
とわたしの心に響いたのです。その時涙を流
して神にリアルに感謝し嬉しくて泣いてしま
いました。私をどれほど愛してくださってい
たのかという事を実感したのです。これが聖
霊の働きだったのです。
神様が人間を神の国に置いて天使のように造
らなかったの理由がここキリストの十字架に
あります。敢えて、朽ちる弱い肉体で造られ
たのです。
それは、さておき
神が命をかけて愛されている事を現されたの
です。その愛によって互いに愛し合う信頼関
係を築き、平和な神の国を造る事が目的です。
それがキリストの十字架なのです。
私たちが、愛し合う力はここにあります。極
端な話、愛が無ければ、獣のようであって、
食うか食われるか。食われたら死んで、強い
ものだけが生き残る社会。それまでの世界に
なっていくのです。神無しの進化論はこうい
う社会にたどり着くのです。
しかし、本当の私たちである霊魂が生きるた
めには、必要なのが愛なのです。これは、非
常に重要なことです。神の愛という霊魂のエ
ネルギーが充填されなければいけないのです。
人間をお造りになった神は、人間の生き方と
して愛することをキリストの身を持って現さ
れたのです。
神を信じるとは、神の愛を受け入れてそれに
習う者になっていくということです。
真の礼拝者であるためには、この神の戒めを
守って実行しようとする力が必要なのです。
それが、造られた私たちが完成に向かう方法
なのです。
この実行力を与えてくださるのが、神から送
られる助け主=聖霊様なのです。
わたしたちの神は、なんと、素晴らしいお方
なのでしょう。この方を信じない理由はどこ
にも無いはずです。あるとすれば私たちの間
違った習慣や言い伝えであり、周りの人目を
気にすることです。先祖を敬うことは正しい
ことです。しかし、先祖も神に愛される存在
であり、神にはならないのです。人の目より
も神の目にかなうようにすれば私たちは本当
に価値ある生き方に変われるのです。
神の戒めである、愛する必要性を胸に刻み守
る時に、神は更にあなたのうちに聖霊により
て愛されている事を満たされていくのです。
あなたは恵みの管理者です。愛と恵みと平安
の中で立てられるのです。この喜びを伝える
事が私たち愛された者の使命なのです。
キリストは、私たちのために、ご自分のいの
ちをお捨てになりました。それによって私た
ちに愛がわかったのです。ですから私たちは、
兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世
の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見
ても、あわれみの心を閉ざすような者に、
どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけ
で愛することをせず、行いと真実をもって愛
そうではありませんか。それによって、私た
ちは、自分が真理に属するものであることを
知り、そして、神の御前に心を安らかにされ
るのです。たとい自分の心が責めてもです。
なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そ
して何もかもご存じだからです。愛する者た
ち。もし自分の心に責められなければ、大胆
に神の御前に出ることができ、また求めるも
のは何でも神からいただくことができます。
なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜
ばれることを行っているからです。神の命令
とは、私たちが御子イエス・キリストの御名
を信じ、キリストが命じられたとおりに、私
たちが互いに愛し合うことです。神の命令を
守る者は神のうちにおり、神もまたその人の
うちにおられます。神が私たちのうちにおら
れるということは、神が私たちに与えてくだ
さった聖霊によって知るのです。
ヨハネ第1の手紙3:16~24