礼拝2014年4月6日

2014年4月6日のメッセージ
「十字架の意味」
来週は全世界でキリストの受難週になります。 「パッション」という映画を見られたでしょうか? 強烈なキリストの受難シーンがありましたが、 これを見たとき涙が溢れて止まりませんでした。 その涙は深い神の愛と情熱に感動しての涙です。 あの映画で一番印象に残ったシーンは磔刑前に イエス様が鞭で打たれるシーンでした。 肉は引き裂かれて血の海になり、気が狂いそうな 痛みに耐えられたのは一途なわたしたち人類への 愛と情熱を感じたのです。
これを見てから、映画館の前で教会の案内を配布 しました。キリストの十字架の意味を知りたいと 思いませんか?と声をかけながら配りました。
泣いて出てくる人は間違いなくクリスチャンでし た。しかし、多くの人は「気持ち悪かった」とか 「えぐかったね」と気分が悪そうで嫌な感じでし た。確かに理由を知らずしてはわからないことで す。
もし、あなたの犯罪のために自分の身代わりにお 父さんがムチ打たれていたらどう思いますか?こ れは言葉で表せない出来事になります。
最近の若い子がファッションで十字架やドクロの 絵を黒ずくめの中につけています。恐ろしさの印 象を与えて強がっているのでしょうか、わかりま せんが、十字架は本来一番最も重い罪の刑罰です。 かっこいいものでも、美しいものでもありません。 またクリスチャンは十字架を拝んでいるわけでも ありません。十字架の意味は悪いイメージしか出 てこないものなのです。
わたしが老人施設で働いていた時がありまして、 そのときにわたしの話を聞いて洗礼を受けられ救 われたおばあちゃんの家に小さな仏壇があったの で処分して欲しいとお願いされたのです。変わり に拝む十字架をおいて欲しいと言われましたが、 日本人は何か拝む対象が無いとしっくりこないん でしょうね。拝む方は天地に満ちておられてどこ でも拝むことができますよとお伝えしました。 しかし、仏壇を処分できるのにはすごい信仰だと 感心しました。確かに神様は人間の作った箱の中 にお住まいになる方ではありません。
それではクリスチャンは十字架をどう見ているの でしょうか?
それは一言で言うなら「神の愛」です。
十字架そのものを見ているのではなくて、神が人 の肉体を持ってこの世に降りてこられたのは、わ たしたちの身代わりとなって死ぬためだったので す。その事柄を神の愛として受け止めているので す。
なぜ、神さまがわたしたちのために死ななければ ならないの?と疑問に思われると思いますが、わ たしたちの最初の人であるアダムとエバは神の前 に大きな死罪を犯したのです。食べたら死ぬと言 われたのにそれを食べて神様の言うことを無視し たのです。それがわたしたちなのです。そうあな たもアダムの子で神から見れば皆アダムとエバな のです。神のようになりたいと気もちがあったの です。神を無視して自分の好きなように生きたい と思ったこと。これを罪と言うのです。神によっ て作られた人が神のルールを無視した事で死罪が 確定したのです。肉体の死では無く霊魂の死、完 全な滅亡であったのです。
それは、わたしたちにはわからなかったこととし ても、自分が神の前に立ったとき自分には罪が無 いと言い切れるでしょうか?罪とは愛の関係を壊 すことです。わたしたちは殺人を犯していなくて も心の中で人を憎むだけで罪なのです。行動に移 していないだけで罪を犯す思考で罪びとなのです。
その罪を持っては死ぬだけの存在が、神の国に生 かせて下さる方法が提示されたのです。それがイ エスキリストの十字架の死なのです。
キリストの十字架の苦しみは他ならぬあなたのた めでもあるのです。そこまでしてまでもわたした ちを死から救いたいと言う情熱が神の愛です。
神は、ねたむほどにわたし達の内に住まわせた霊 を愛しておられると言われます。
神がわたし達の至らなさを自分の苦しみで、帳消 しにしてくださったのです。いったい誰が訴える と言うのでしょう。それは一緒に罪を犯させた堕 落した天使すなわち悪魔なのです。悪魔を面前で 裁くためにも神様は自分の決められた約束を守ら れる方なのです。
キリストの十字架で悪魔がわたし達の死罪を訴え る事ができなくなったのです。キリストの十字架 を信じる事しか救いの道は無いのです。
十字架を通して神の愛に近ずく人は幸いです。
ヨハネ第1の手紙4:9~10
神はその一人子を世につかわし、彼によってわた したちを生きるようにしてくださった。それによ ってわたしたちに対する神の愛が明らかにされた のである。わたしたちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛してくださって、わたし達の罪の 贖い(身代わりとなる)の供え物として御子をお つかわしになった。ここに神の愛がある。
キリスト教は良い事をするための単なる倫理道徳 の教えでは無く、神様との関係を正しくするため の契約であり、それによって人が神の愛を知り、 神の前に正しく生き、互いに愛し合うことを必要 と知ることなのです。
多くの人は神様を知らなくても愛することが正し いことを知っています。しかし、それを実行する意思 感情、知識が無いのです。キリストの十字架を通してそ れを知り、完成されていくのです。