キリストの苦しみは私の為に

キリストの苦しみは私の為に
4月4日は全世界で「イースター(キリストの復活祭)」です。
お伝えしたいのは、復活前に十字架に架かった事実です。
十字架に架かりに行くのは自分の任務だと知っておられ、その前に祈ったキリストの祈りがこうです。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて ください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」マタイ伝26:39
聖書によると、最初の人間アダムの違反で、全人類の罪過に決定し、全人類の霊魂の死滅が決まっていました。
そこで、その死滅の代価をイエスキリストが十字架に架かり身代わりになられたのです。これは天地創造の前からの計画であったとパウロはエペソ書で断言します。キリストが十字架に架かると言う事、アダムが罪を犯す事、悪魔が裁かれる事、全てシナリオがあるという事に成ります。
イエスキリストの十字架は史実の出来事で、聖書の計画通りで、
そこに神の愛が示されました。私たちの霊魂を永遠に生かすために苦しみに耐え忍ばれ命を懸けて愛してくださったのです。キリストの情熱がそこに見えました。パッションの映画を見て改めて深く思います。
人間として肉体を持った神の子イエス・キリストは、ゲッセマネの祈りで父にこの盃(十字架の任務)を退けてほしいと願います。それは神でありながらも私たち同様生身の肉体を持った弱さの本音であると察します。十字架に苦しみを受ける覚悟はできていた神の御子であっても、肉体を所有した以上その壮絶な苦しみは受け難い任務であったのです。その祈りは父の御心に従う苦渋の決意であったと感じます。そうだとすると、私たちは尚更、父の御心を行うとき、御言葉を実践するときに肉の弱さのゆえに決意が必要だと思うのです。これこそが自分の十字架を負うと言う信仰が問われるところかと思います。キリストの十字架の苦しみ故に全人類の救いの道が開かれたのです。私達には私達それぞれの十字架と言う神様の任務があるはずです。自己実現しか無い人は十字架を投げ出すでしょう。神の実現を願う人は自分の命が保証されます。神の御言葉を実践すると言う事は神様の実現を願う事なのです。それがクリスチャンの唱える「主の祈り」です。キリストの壮絶な十字架は無いとしても自分の身勝手な感情や誘惑との戦いがあるはずです。それは自己禁欲では無くて、神様の実現を願う心から来る決心です。
エペソ1章でパウロはこの計画は天地万物が創造される前から決まっていたと言います。すなわち、エデンの園で起こった出来事で急にキリストが必要になった訳ではなく、最初からキリストの故に天地創造されたと言う事になると理解できます。アダムとエバ、そして蛇(堕天使)が罪を犯す事が予定されていたと言う事に成ります。要するに偶然でなく必然だという事です。(この解釈には、異論ある方があると思います。)この摂理は、人間と悪魔が罪の中に閉じ込められて人間には救いのチャンスを、悪魔には決定的な断罪宣告がなされるためです。救いのチャンスを得る私たち人間はキリストの十字架を通して神がどれほど私たちを愛しているかを現わされ、その愛を受け入れて神との関係を自発的に持とうとする人に救いを与え、神の子として神の国の住民とされて、神と人が真実に信頼し合える神の王国を造ろうとされている事がみ旨だと解釈するのです。「主の祈り」がその摂理を現わしています。神が命を懸けた真実の愛を現わす事を可能にするために、この世が限りあるもろい土のチリで造られ、敢えて弱い肉体として私たちは造られたのです。それは、キリストの十字架で神の愛を現わすためであったのです。神は永遠の霊的存在で死ぬことができない存在ですが、キリストとして身代わりになると言う事で死ぬと言う事が可能な肉体を所有できるように、この世を造ったのです。命を懸けた神の愛を現わせる舞台がこの世であったと言う事です。
イエスキリストの十字架の業は、私たちが神の真実の愛を知るためと、悪魔(堕天使)を決定的に裁くと言う目的の為です。これが神の恵みなのです。イエスを信じる人は救われます。私はこれが聖書の真髄だと考えております。
神が命を懸けて私たちを愛しているのだという事。
これが十字架の神様のメッセージです。