神の愛で救われる事と地獄の強迫観念

神の愛で救われる事と地獄の強迫観念
私は教会に行きだしたころ、聖書を読んではただ地獄の恐ろしさから回避したいが為だけにキリストを信じました。
しかし、それは全く間違った信心だと気づきました。旧約聖書のモーセもシナイ山に上り神に会うまでは恐怖心でいっぱいであったと聖書にしるしています。ですが、モーセは神に信頼される存在になったのです。
私が最初教会に導かれたのは、「キリストが今、再臨されたらイエス様を信じていないと地獄へ行ってしまう」これで信じる決心をしました。もちろん、病の癒し、悪霊の追い出し、いろんな奇跡を経験しました。最初は、地獄へ行きたくないから神を信じると言う強迫観念での信じ方でしたが、それが間違った信仰だと気づいたのは聖霊体験でイエス様の迫りくる愛の心が注がれた経験をしました。神の愛に包まれる経験です。これから私は180度変わりました。神様に愛されている事を確信を持って信じる事ができるようになりました。神は私を愛している確信です。それまで自分の心の汚さが常にありました。反省しても反省しても同じことの繰り返しでついには自分は罪の中で苦しみ神様に近づけない存在だろうと諦めて自暴自棄になりかけておりました。しかし、この聖霊体験をしてから悟りました。神は私たちのした悪事や優劣で判断されるのではなく、ありのままの私たちを愛してくださっているのだと明快に分かったのです。どんな悪い子でも親がその子を愛するようにです。大切なのは、その親の心を受け取るだけなんだと分かったのです。聖霊は私たちに「アバ、父よ」と言いたくなる思いにしてくださる親子復縁の力があるのだと知ったのです。私たちのお父さんは私たちの存在自信を愛しておられると確信したのです。ですので今は、神が私をこよなく愛してくださったゆえに信じる信仰に180度変わりました。地獄が恐ろしくて信じる事は間違った信仰であり、神は地獄を見せて人を脅し信じさせる、恐喝するような神でない。神の御子イエス様が十字架で死ぬほどに私たちを愛を示してくださったその心を受け入れ信じる事が信仰なのだと確信を持っております。神が私たちを清めてくださるとは、自分の行いを神の前に反省して正す事では無くて、神が愛した愛で互いに愛し合う事で平和を造る神の子となる事です。神様の御心を行おうとする人を待っておられます。「主の祈り」はそれを願う祈りです。「神様の夢になりたい」と思えるようになりました。ずばり答えとしては聖霊に導かれるなら地獄は全く関係ないです。しかし聖霊に導きが無いと肉の思いすなわち自己中心の心で人を愛する事が出来なくなります。神様を誤解する事がないように、多くの人が神の愛に導かれることを願って投稿しました。長文を読んでくれて感謝です。