「礼拝を捧げる」と言う事を大切にしたい。

「礼拝を捧げる」と言う事を大切にしたい。
コロナ禍中配信で礼拝参加
されている人は多いですが、
果たして家庭で恵みを受けられているのか
それで礼拝したことになっているのか
疑問に思うのは私だけでしょうか?
そもそも、教会の礼拝が形式的になって
恵みも喜びも無いようになっているのは
指導者の責任かも知れませんが、
実に身体性と言う言葉を聞いたとき
確かにうなづける事があります。
うちの教会に来られて精神病が
改善された信徒がおられます。
コロナの蔓延防止の為に
動画配信礼拝に切り替えましたら
その症状はまた悪化していったのです。
しかし、その信徒さんはそれ以降
第2波、第3派が来ようとも
電車に乗り礼拝に集う事を
止めようとしませんでした。
誰かの強制ではありませんでした。
今その信徒さんはもちろん恵みを受け
元気を取り戻しておられます。
神の御名を呼び求め、御顔を求めて行く。
御声を聴きたい、自分の讃美と祈りを
聞いていただきたい。この心の姿勢が
礼拝と言う行為の現れによって神が
豊かに祝福してくださるです。
礼拝を捧げる事が出来る。
と言うのは素晴らしい神の恵みです。
特に日本人にとって礼拝を捧げる事は
本当に特別な恵みです。この価値を
知るならば礼拝を捧げる事が楽しくなります。
霊と真を持って心から神を求める人を
神は待っておられます。
このコロナ禍は神が私達に下さった
大きなチャンスかとも感じます。
もちろん、クラスターを避けるための
対策や配慮をしたうえでです。
「主の祈り」では先ず
「御名をあがめさせたまえ」
「讃美させてくださいと願いなさい」
と唱えているにも関わらず
主を賛美する事を軽率に扱って無いでしょうか?
讃美する事は礼拝の最も重要な事です。
讃美させてくださる恵みに応えたいと
強く思うのです。