人は恐ろしいほど人を裁く

人は恐ろしいほど人を裁く
私も知らず知らずのうちに
他人がどうのこうのと
批判したりジャッジしたり
突っ込んだりののしったりしがちです。
自分の思い通りに
ならないことが有れば、相手の所為に
して責任転嫁し、
その人を裁く
聖書の神の言葉は
「人を裁くな、
 自分が裁かれない為である」
これは、神が人の罪から来る
性質をよくご存じの上で
この忠告をされていると
思います。
罪とは神の指示を受けずに
自分の感情のままに生きる
事を言います。
神様は平和を望まれます。
人を刺す言葉を発すると
あなたも刺される事になると、
忠告されているのです。
多くの人は自分を正しい者とし
擁護する為に人を批判します。
その性質は自分の優位性を
保守し誰かを見下す事で
満足させようとする性質なのです。
他人の事をジャッジする事で
優越感を得る自己満足なのです。
私も昔はそうでした。
今も自分を擁護しようとして、
相手を勝手に分析して相手の否を
ジャッジしている事がありますね。
神様を知ってからは
そのような思いが有っても
口を噤む事ができるように
なりました。人の悪いことは
決して言わない。
それは神様の愛を
知ったからです。
また、自分が裁かれたくないから、
他人からも言われたくないからです。
人は自分の語った言葉によって
裁かれます。嫌な感情で
何気に言った言葉は
その人に対しての嫌味であったり
刺す言葉になっていたりします。
それでなくても誰かの言葉を悪く
受け止めて誤解しやすい人は多いです。
悪く誤解しやすい人は、
実はその人の心がそういう人なんです。
人は悪い事を考えるものだと言う
フィルターがその人の心にかかっています。
それは自分の考え方がそうだからです。
人の事をすぐに批判する人は
他人もそう思っていると考えて
疑心暗鬼になるのです。
神を信じるとは
神は良い方だと信じるところに
有ります。人との関係も
同じなんですね。そこに平和が
生まれるわけなんです。
神の憐みに触れた人は
変えられます。
聖霊(神の思い)の力です。
心に憐れみを受けた人は
憐れむ心を持とうとします。
人との平和を築くためには
他者に対しての憐みの心が必要です。
敵をも愛する心です。
愛するとは好きになれと
いう事ではありません。
その人の存在を憐れむ事だと
思います。
悪人にも悪人側の言い分が
あるわけです。
それが利己的なダメな事でも
諭す事が出来ればと思うんです。
それが神の愛を知り
神様を信じて生きると言う
事になるのではと思うこの頃です。
大和民族公園の瓢箪池に浮かぶ
スイレンです。自分の姿を鏡に映して
自分を良く知る事で
神の言葉によって整えられるのだと
思います。