律法学者やパリサイ人は

律法学者やパリサイ人は
神を良く知っていると言いながら
最も神から嫌われた人たちでした。
多くのクリスチャンは歳を重ねると
知らず知らずのうちに
律法学者やパリサイ人のような
人たちになっていく傾向があります。
気を付けないとダメですね。
私も自戒しております。
人は恐ろしいほどに誰かを裁くのですね。
イエス様は簡単に「人を裁くな」とおっしゃった。
自分の義さを自己承認させて満足する、
自己優位性を満たすための承認欲求。
それが批判したり裁いたりする言葉を出す
動機なのではないかと思います。
みんな、人から自分は正しいと思われたい。
批判されたら誰でもいやですよね。
しかし、誰かを批判したり、裁いたり
する言葉を発して自分を満足させる。
誰でもあるあるだと思います。
そこで、「裁くな」と言われた
神の御子イエス様は言われます。
神が好むのは「憐み」であると
言われます。
イエス様は、
父である神が完全であるように
あなた方も完全でありなさい。
その完全さとは「憐み」であると思います。
人の弱さを知り、理解して、分かってあげる。
もちろんダメな事はダメだと諭す事は必要です。
でも、そうした間違いを指摘する動機は
自分の為であってはならないと思います。
その人が更生できる機会を願う事だと思うのです。
御子イエス様は、聖書を守っているユダヤ教の
人ではなくて、敢えて、ユダヤ人から
嫌われている罪人と見下されている人たちの所に
行き大きなチャンス、恵みと希望を与えられました。
姦淫をした女性、取税人、サマリヤ人、ローマ兵、
そう言う人たちに神の「憐れみ」を伝えたのです。
そしてその人たちは神の救いを得、
その人に命を吹き込まれ、新しく生まれ変わり、
更生する機会が与えられたのです。
人を批判するだけでは人は命を得ません。
批判や裁く事でなく、何故そうなったのか
話を聞いて分かってあげる事が大切ですね。
相手を落としいれて自分を高くする者では無くて
相手を大切にすること。ぞれが神の慈愛としての
「憐み」だと思うのです。
神の憐みがありますように。🍀