聖書の律法(戒め)の 意義を考える

牧師の徒然
聖書の律法(戒め)の
意義を考える。
国の法律は人の為に
あるのであって、
法律の為に
人があるのではない。
法律は人をもともと
裁くためにあるのではなく
国民が安心して幸せに
暮らすためのルールである。
聖書の律法の意義は
聖書の律法は人を罪に
定める事が目的でなく
罪を認めさせ自分の弱さを
自覚させる目的がある。
と使徒パウロは言います。
その事から、イエス様の十字架で
神の律法は完成されました。
憐れみと赦しが律法に加わり
完成したのです。
神であるイエス様が
おっしゃるには
律法によっては誰も
義とされる事がない。
また律法によって人は
裁かれる事も無い。
イエス様が罪の咎を
自分がその身に受けて
咎を失くされたからです。
それがイエス様の赦しです。
そしてイエス様を信じる事で
義とされます。
罪の咎、責めが
無くなったからです。
律法によって人は弱さを知り
自戒し整えられる。
自分の弱さを知った人は、
他者の弱さを憐れむ。
律法は愛を育む役割があるように
思います。
律法によって私達に
罪の自覚を得させ、
神の赦しを必要とする者を
イエス様が義とする。
イエス様が私達の罪を
背負ってくださったからである。
その愛を知るてこの役割です。
イエス様は律法を
2つにまとめられた。
第1の戒め、
主なる汝の神を愛せよ。
第2の戒め、
自分を愛するように汝の隣人を愛せよ。
結論として、
神と自分と隣人を愛する事で
律法は全うできる。
律法の最大の完成は「赦し」である。
主の祈りで具体的に
指示されている唯一の
戒め。それは「赦し」である。
赦さない人はどれだけ多いか?
赦す事によって神の国を見る事が
できるようになるだが、赦す力が無い。
御国を求めるとは互いに愛し合う関係
を求める事です。
それが「赦し合う」事だと言えます。
「赦し」は争いを生まず
平和を生み出すのです。
平和を作り出す人は
神の子と呼ばれます。
赦すためには忍耐が必要です。
相手を咎めず責めず
自分の感情を忍耐する。
神の国を求めると言う事です。
人は神の律法を守る事は誰もできない。
心の中で思っただけでも裁かれ、
自分で罪の目を抜きだし、罪の右手を
切る人など誰もいないのです。
それゆえ、律法は誰も守れないのだと
イエス様は釘を刺されたのです。
その事で人は自分の弱さを知り、
イエス様から赦しを得て、
私達も赦し合う。
それが神が意図された、
神の子になる修行なのだと
私は思います。
律法では神の国は見いだせない。
「赦し」だけが神の国を求める事だと
あらためてそう思うのです。