聖書の原罪について、救いについて

聖書の原罪について、救いについて
原罪と言う言葉は聖書にはありませんが、ロマ書5:12、と1コリ15:22のパウロの言及からアダムの故に全人類は罪に定められたと言うところです。私の思うところは、善悪の知る木の実を食べたから死ぬのではなく、神様の言葉の宣言なんですね。これを食べると死ぬと言われた神の言葉が効力を発しているわけです。創世記2:17「食べると必ず死ぬ」と言う神の宣言が有るわけです。それで食べたアダムの故にアダムの子孫すべて(全人類)に死が適応されているという事なのですね。実際にアダムの肉体はその場で死にませんでした。それで、霊魂が死ぬと言う解釈になるのは、創世記3:22で人がその手を伸ばして命の木から取って食べると永遠に生きると言う事を示唆している内容があります。という事は命の木の実を取って食べられないと言う事は永遠の命は得られないという事です。永遠の滅びだと取れます。それが地獄と言う事です。ですが今から2000年前に肉体を持たれた主イエスキリストが身代わりになって死ぬ事でそのアダムの死罪(罪過=ルール違反)は清算されたという事です。黙示録の最後に22:14に命の木の実を取って食べる特権が与えられるとありますが、聖書はこの命の木の実を得る事で永遠の命に預かると言う福音の約束が書かれているのだという事です。罪過(パラプトマ)はキリストにより清算されたのですが後は、神の言葉より悪魔(蛇)の言葉を信じた道徳的な罪(ハマルティア=的外れ)が個人個人に残っております。罪と言うのは私達が生みの親である創造主と本来有るべき正常な関係を持たない状態です。これはキリストの十字架の赦しでは無く、個人個人それぞれのイエス様を信じる信仰によって義とされると言う2段構えになっていると言う事です。アブラハムはイエス様が十字架に架かる前から義とされているのです。しかし、アブラハムにもアダムの罪過は適応されております。キリストの十字架で彼も完全な救いを得た事になります。義とされたアブラハムにも罪過は降りかかっていたのです。イエス様はこの世に御子が降臨されたこの時をアブラハムは喜んだと言ってます。(ヨハネ伝8:53)ローマ書4:27にキリストは罪過(パラプトマ=アダムのルール違反)の為に死なれたとあります。罪(ハマルティア=的外れ)とは状態を示します。キリストが十字架に架かって清算されても、罪の状態=的外れの個人個人の状態は変わっていないわけです。的外れの状態から的を得た状態になるためには創造主イエス様が肉体を持って十字架に架かるほどの愛と恵みを受けて良き関係を回復させたいと思う心が義とされて救いに達するという事になります。神との関係回復を自分の意志でする事が救いに繋がり、復活の約束、永遠の命、神の国に入る特権、神の子とされます。救いとは神との本来人間が持つべき関係の回復を指すと言えます。それがイエス様を信じる事で救われるという事になります。イエス様はヨハネ伝16:9で罪とは私を信じない事だと言われました。