神を信じるとは 信仰を持つという事は、・・・

神を信じるとは
信仰を持つという事は、
私には神が必要なのだと
意志を持つという事。
私の価値、命は創造主である
神にあると信じる事です。
人は自分の意志で自ら存在しているわけ
では無くて、神によって
存在させられていると言う事を
受け入れる事が必要です。
人間を造られた神は、親心で
私達を大切にしようとなさっている。
しかし、神は私達をロボットのように
造られたわけではありません。
自由な意思を持つようにされたのです。
神様を必要として生きるのか?
自分で好き勝手に生きるのか?
聖書は
前者を「義」とし、
後者を「罪」と言います。
アダムとエバ以来
この世では、この二者に分かれます。
罪とは的外れと言う意味で
神を無視して脱線し、
自分勝手に生きる事
一番初めにそれをしたのが天使です。
神に仕えるために造られた存在が
神を裏切る行為をしたのです。
その天使が悪魔サタンとなったのです。
私達もサタンの側に立たない事が義とされます。
神は「互いに愛し合いなさい」
と言われてもそんなことはできないと
反抗し、自己主張をし
神に反論し神から離れる事が罪となるのです。
それが神を信じないという事に成ります。
ですがそれはできなかったとしても、
神の言葉だから間違いない。
神の言う通りにすれば命が保証されると信じ、
反論せずに従えるように
何とかしようと努力する人を
神は義へと導いてくださいます。
できなくても良いので
神様の言う言葉に従おうとする意思が
義とされるのだという事です。
神様の指示に異論を立てて
神様の言葉に賛同しない人は
自分を守るために人との関係を
破壊する事になっていきます。
そこから戦争が起きるのです。
小さな小競り合いから
国と国、民族と民族の戦争になるのが
神様の言葉に従おうとしないからです。
そういう人は残念ながら
神様が義と認めてもらえず、
神の国に入れてもらえない。
それは神の国は
平和でなければならないからです。
死後、神の国に入るには、
神様との関係を正常にすること
それが、十字架に架かられた
神の御子イエス様を信じるという事です。
聖書はイエス様が創造主であると言ってます。
その創造主イエス様が肉体を所有されて
この世に降りて来られて
私達の罪の身代りに十字架に架かりました。
私達に神の赦しと愛を伝えるためです。
十字架のイエス様を信じる事が
神との関係を回復することになります。
それは神から離れて反抗する自分でなく
私には命の源である神が必要である。
私を愛してくださる神様側に立つと
いう事です。
神の言葉をできるできないでは無くて
できるように神様側に立つという事です。
その決心をするという事、
これが救われる信仰であると言えます。
※2023/5/23キンシバイが咲きました。