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救われるとは

救われるとは
イエスキリストの十字架を信じれば
罪が赦され自分の犯した過去の罪は
全て赦されて救われると多くの
クリスチャンは言いますが・・・・
ちょっと違います。
厳密に言えば
十字架で故人の罪が赦されるのでは
無くて既に全人類に適応される
アダムの罪過が帳消しにされたと
言う事なのです。
イエス様は私達の罪(神を信じない状態)
に対して十字架に架かったのではなく、
罪過(アダムの罪は全人類の死罪)の為に
かかったのです。その事の故に
既に全人類の罪過の清算がなされました。
(ロマ4:25)私達全人類はアダムの罪過の故に
裁かれなくなったのです。
しかし、個人個人が罪の状態(神を信じていない)
であるなら罪の状態のままです。
罪とは神(イエス様)を信じ従わない事です。
この理屈をちゃんと捉えていないと、
「イエスキリストが十字架で罪赦されたなら
それで救われてるからいいじゃん」となります。
全人類の罪過(アダムの罪)は
帳消しにされましたが神を信じていなければ
罪(的外れ)の状態のままであるという事なのです。
極端に言うと救いは十字架では無くて。
イエス様を信じる信仰の故に義とされる
という事です。イエス様を信じるという事は
罪(的外れ)が赦されるのではなくて、
罪(的外れ)の状態で無くなるという事です。
それで救われるのです。
アブラハムも信仰の故に義とされました。
イエス様の十字架の故では無かったのです
(アブラハムは十字架より2000年前の人)。
ですが、アブラハムの救いの確定は
キリストの十字架に架けられた瞬間でした。
神の国が約束され、神の子とされ、
死後の永遠の命の約束が適応されるのは
イエス様に信じ従う事だけです。
十字架によって救いの完成は
されましたが、十字架では救われません。
十字架では本人は義とされる事がありません。
神に義とされ救われるのは、
その人個人個人が神を知んじる信仰だけなのです。