信仰義認について
“人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。”
ローマ人への手紙 3章 28節
此処でパウロが言いたいのはモーセの律法を行うという自力救済的なユダヤ人の考えがあったからです。その当時、律法学者やパリサイ人のような指導者が生まれ、律法を守る運動が盛んだったのです。しかし、そのような人たちは見せかけだけで心は神様の御心に従う心は無く偽善的で形骸的でした。
此処で言う「行い」とはモーセの律法を行うとする事で神に義とされるのだと言う自力救済的考え方とその偽善に対してパウロは指摘するのですね。
ですので、信仰は行いではないと言うのは、モーセの律法を行う事で義とされないと言う事です。
モーセの律法の行いで義とされる事も無いし罪に定められる事もないという事です。
重要なのはイエスキリストへの信仰だけが義とされるのです。
イエスキリストへの信仰義認は、神の愛と恵みを受けて心から主に信じ従う事です。それは形骸的に律法の行いでは無いという事です。心にある事が言葉や行動に出てくるという事です。
ですが行為と信仰を一般化して対立した解釈をすると新しい観念主義のとりこになる危険があります。
信じるだけで救われるという事で信仰と行為を分ける解釈は間違ってます。聖書のあらゆる部分で信仰とは行いが伴い、行いは信仰の現れだと解釈されるのが健全な聖書の教えです。
此処で言うのはモーセの律法の行いでは無く、イエスキリストを信じ従うと言う行いは必然になるのです。
「心で信じるだけで義とされる」とは何処にも書いて無いのですが、何もしないでも、信じていたら大丈夫と言って何もしないなら、イエス様の信頼を得ない事になります。心で信じたなら必ず主に従おうとなるはずなのです。
信仰とはギリシャ語でピスティスです。普段使いの言葉で信頼、誠実、信実、真実と言う意味で使われます。神が私達に信じるだけで救うと言ってるのでは無くて、神は人に信仰を要求されているのです。
それは信頼できる人、真実な人、誠実な人を求めておられます。
簡単に言えば、神に協力する人ですね。
そこでタラントの例えでは神の利益を求めている人を求めておられます。
いくら信仰が有っても邪魔するのは悪い自己感情や自己優位性から来る自己中心の自分がイエス様の言う戒めを受け入れ難くなります。そこで自己忍耐が必要になります。あの兄弟をどうしても赦せない。しかしイエス様の故に赦そうとする意志を持つ事が信仰の人だと言えます。これは自我プライドを砕かないとできません。自己との闘いです。それが神の為に自分の十字架を負う事だと思います。目的は神の平和を造る事です。それが神の国に協力する人であり、主の祈りを実践しようとする人です。そういう人が信仰の人です。商売人がお店の繁盛を願う事でどんな嫌な客でも接客するのと似てます。
神の国の為に自分を忍耐する人がイエス様の御言葉に従う人でしょう。
問題は、十字架で全ての未来の罪も全て赦されていると勝手な解釈がなされて神が一方的に救われた事を心で受けるだけで良いと理解されているクリスチャンが多い事です。十字架では過去のアダムの罪過とモーセの律法による違反の攻めが無くなった事が神の恵みなのです。しかし、イエス様を信仰を持たなければ罪の状態のままなのです。
未来については一人一人個人と神との信頼関係を持つ事で罪から義とされると言うのが信仰義認だという事です。イエス様はヨハネ伝16章で罪とは私を信じない事だと言われました。
その信仰には最初の動機は心で信じて、信仰告白と言う行為、そうして信じるならイエス様の戒めを守ろうとする人になります。それが「信仰」すなわち「神との信頼関係」を回復させる人の神の愛に対す応答であり、生き様になる事が正しい信仰なのです。信じたと言いながらイエス様の戒めである「互いに愛し合う」と言う事を無視するのならその人の信頼は無いという事になります。
信仰とは神からの信頼をされる人です。それはイエス様の御言葉に従順であるという事です。
信仰の人は、この世での生き方で義とされます。
「義人は信仰(神との誠実な信頼関係)によって生きる」とロマ1:7である通りです。
ですので行いの伴わない信仰は、神との信頼関係がないという事になります。
その間違った信仰の考え方は十字架で未来の罪まですべて神の一方的な恵みで信じるだけで赦されていると言う受け身だけの信仰で間違った考え方から生まれる事だと思います。
神は私達に信仰(信頼関係)を求めておられます。
その御心に叶う人が信仰義認とされるのです。
初心者にそれはなかなか理解できないです。先ずは神の愛を知る事からです。
自分の命が神様に架かっていると分かったなら真剣に神を求めるはずです。そうしたら神様は分かるようにしてくださいます。
結局は、神は人の子らを天から見下ろして神を求める賢い者が居るかどうかを探しておられます。
主の聖名を呼び求める人は必ず救われます。