罪の赦しは信仰であって、
十字架ではない。
十字架で赦されたのは
「罪過」のみです。
「罪」は赦されると言うより
その人がイエス様を信じる事で
義とされ救われるという事です。
十字架で罪過が”0”にリセットされるだけです。
そのあと十字架の業で神の愛を認め受けて
それに応答するのが信仰です。
救いは無条件ではなく、
信仰が要求されているのです。
神はその信仰に伴う行いを見て
救われます。
“すると見よ。人々が中風の人を
床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に
「子よ、しっかりしなさい。
あなたの罪は赦された」と言われた。”
マタイの福音書 9章 2節
これはイエス様がまだ十字架に架かって
居られないのにイエス様が罪を赦しています。
不思議に思いませんか?
アブラハムも十字架の2000年前に
義とされているのです。
これは十字架と義とされる事は別なのだと
分かります。救われる信仰義認とは
何処までもイエスキリストを信じる信仰です。
原罪について説明します。
エペソ書2:1に
全人類は「罪」ハマルティア
と「罪過、背きの罪」パラプトマによって
霊魂が死滅する状態だとパウロは言います。
原罪には違う2種類の要素があります。
この図は創世記3章のアダムとエバの原罪を
説明します。
「罪過」とは過去のルール違反による
死罪の適応。(アダムの違反と律法違反)
「罪」とは心の中で「神のようになりたい」と
思う的外れ状態の心です。
ロマ書4:25で十字架は罪過の為であったと
パウロは言います。罪の為でなく、
罪過の為であったという事です。
罪過は過去の違反の罪で未来の罪まで
赦されていないのです。
では、罪が赦されるのは・・・・
イエス様を信じ従う信仰なのです。
「自分が神のようになりたい」と言う言葉を
撤回して、「神だけを信じ従います」
これが悔い改めと言う「心の方向転換」なのです。
と言う信仰告白が罪から義とされるの
信仰義認となり、救われるのです。
十字架で未来まで全ての罪が赦された
と言うから救いは取り消されないと
思い込んでしまうのだと思います。