教会こそ神の国に
エペソ1章には神の計画
や目的、あらすじを短く
まとめておりますが、
その結論はエクレシア
としての教会にあります。
神の子の地上に於ける
具体的な現れとして
教会を建てる事なのです。
教会はキリストの体です。
この世の中で目に見える
神の現れる形として教会と言う
共同体が素晴らしい神の愛と平安と
恵みと喜びに満たされる領域を
形成させて一つにする事です。
そのルールが「互いに愛し合いなさい」
「赦し合いなさい」「裁き合うな」
と言う戒めになります。
そうして「主の祈り」がその祈り願う事で
神の御心なのです。
「この地に神の国を来たらせたまえ!」
と言うのが中心です。
悪魔が放置されたこの地に
聖なる神の国を分離させていく場所
悪魔よりも神に従って生きる事が
如何に大切かを現わすのが
エクレシアとしての教会なのです。
ロマ書14:17 この世での
神の国は聖霊による義と平和と
喜びに満たされた関係づくりです。
ルカ17:21で神の国はあなた方の間にあると
イエス様は言われました。
それは神の愛によって従う
「互いに愛し合う関係」なのです。
そこに神との信頼関係と
神の子達の信頼関係が生み出され
一つなると言うところです。
皆さんがいつも祈っている
「主の祈り」はそれを願う
祈りなのですね。
果たして、教会がそのように目指している
でしょうか?
毎週、礼拝を捧げて御言葉を聴くだけで
教会の礼拝に誰とも交わらずに
行ったり来たりしているだけでは
ないでしょうか?
個人主義で兄弟姉妹係わりを持たずに
愛が冷えた状態、詰まらない、暗い、
寂しい集まりになっていないでしょうか?
特にコロナ禍でネットで礼拝を受けたら
それで良いと思っている人が
多くなったのではと危惧します。
礼拝とは、礼拝時間を守るだけでなく
神の国を建て上げるための協力する
意志が必要だと思わされております。
私はそれが信仰だと思います。
信仰とはその人の積極的な意思で
神と人との信頼関係を造ると言う
事だと思います。
「主の祈り」はそれを願う祈りです。
そうすれば、必ず皆さんに繋がる
家族や親族ご友人がイエス様の教会こそが
素晴らしい魅力ある神の国と知り
救われていくと信じます。
この世の中で魅力ある教会づくり、
世の光と成りますように。
皆さんの属する教会、導かれる教会が
素晴らしい神の国でありますように
願っております。