救われるとは?

救われるとは?
神であるイエス様を信じる信仰で
誰でも救われます。
神様を信じていない状態が罪で
神様を信じる状態が
罪で無くなり義とされます。
よく勘違いされているのは
イエス様を信じるから十字架の
罪の赦しが有効になると
思っている人が居ますが
それは違います。
イエス様の十字架の出来事で
古今東西全世界の人の罪過が帳消しに
されました。もちろん、
アダムの罪過は日本人にも適応され
て死の効力がありましたが
清算されました。
アブラハムはイエス様の十字架の
2000年前であるのに関わらず
信仰により義とされてましたが、
アダムの罪過が帳消しにされたのは
2000年後のキリストの十字架で
完全な救いを得る事になりました。
罪と罪過は違います。
罪過はキリストの十字架で
帳消しにされましたが
個人個人の罪の状態はそのままです。
これはイエス様を信じる事で
罪の状態でなくなるという事です。
イエス様も罪とは私を信じない事だと
言われました。ヨハネ16:9
罪(的外れ)とは今の個人個人の
神との関係の状態を指します。
聖書は神との正常な関係でない事を
罪(的外れ)と言います。
罪過(犯してしまった罪)とは
アダムの犯した罪の咎であり、
これは全人類に適応されている死罪です。
これにより永遠の滅びが適応されてました。
ユダヤ人であるなら律法違反です。
ルールに基づいて違反した罪を
罪過(パラプトマ)と言います。
イエスキリストはこの罪過の故に
十字架に架かり私達の罪過の身代りになって
アダムのした罪過の死を清算させるために
この地上に救い主として
肉体を持って来られた神の御子です。
御子は聖霊によってマリアから生まれたので
罪過が無い状態です。罪過が無いので
私達の身代りになって罪の清算が出来る訳です。
神の御子イエス様を信じる者は裁かれない。
これが救いです。
では、この信じるとはどういう事か?
信じると言う言葉以外に条件は付きません。
たしかに間違いなく信じるだけで救われます。
しかし、「信じる」という事に深さがあります。
信じると言いながらイエス様の言葉を
簡単に拒絶するなら信じるとは
言えないという事です。
赦しなさいと言われて頭から赦せないと
言うのはいかがでしょう。ですが、
感情的には赦したくないが、主がそう
おっしゃるなら赦す努力をしましょう!
これが信じる人の言葉に成ると思います。
イエス様を信じると言うのは
神との正常な関係に入るという事です。
これが救われるという事です。
私達全人類はイエス様によって造られた
被造物です。イエス様は創造主です。
創造主と被造物の関係を正常に戻す
という事がイエス様を信じるという事です。
それは神無しで生きて来た人間が
創造主である神の許に戻り神様の
御心に従って生きる事によって義とされます。
御心に従って生きるという事が
創造主と被造物の正常関係です。
それがイエス様を信じると言う事だと
私は思います。
イエス様から私のした犯罪を赦してもらう事が
私の救いなのではなく、
(十字架で私達の罪過は清算されたのですから)
「神様との関係を正しくする」という事が
救われるという事だと聖書全体を通して
解釈できると思います。
罪と言うのはイエス様を信じず
神との正常な関係を持たない事です。
それは神無しで勝手に生きるという事です。
このように書けば反発する人は結構いると
思いますが、私は聖書全体を通して
救われるとはどういうことかをはっきり
させたいと思います。
王の祝宴に招待されたのに、
礼服を身に付けず追い出された人に
ならないようにしたいんですね。
特に「主の祈り」は神が私達に
このように願いなさいと言う神の御心です。
これを理解して父の御心を知る必要があります。
これを週ごとの礼拝で毎回唱えておきながら
ただイエス様を信じているだけなら
礼服を来ていない状態になるのではと
思います。
私は聖書の根幹を詳しく紐解き
救われるためには神の前にどうあれば
良いかをシェアーしております。
イエス様を信じると言う言葉の
深さを知って下さればその信仰の故に
神の祝福が臨みあなたを幸せに至らせます。☆
写真は曽爾高原です。奈良と三重の県境です。