誤解される御言葉
“キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。”
ペテロの手紙第一 2章 24節
ペテロは全て罪をハマルティアと書いてますが、パウロのように罪過とは書き分けていないです。パウロでしたら罪と書かずに罪過(パラプトマ)と書いたと思います。
パウロはエペソ書2:1で(口語訳)「罪ハマルティア」と「罪過パラプトマ」の中で私達は死んでいたものであると2つの要素を明記してます。「罪」と「罪過」は違います。「罪」とは私達の心が的外れ状態であるという事です。「罪過」とはルール違反した結果でアダムの違反とモ―セの律法違反の咎です。
罪から離れて義の為に生きると言う事は、十字架で罪の状態が失くなるという事では無いです。十字架では過去の違反であるアダムの罪過ルール違反の死罪が赦される事とモーセの律法の違反に定める効力が無くなったという事です。それはパウロがロマ書5~7章で書いてます。その罪過の赦しがキリストの十字架での神の一方的な愛と恵みなのです。
しかし罪の状態はキリストの十字架ではどうしようもないのです。
罪の心の的外れ状態から義とされるためには個人個人の神への信頼関係を回復させる事です。それが信仰(真実に忠実に信頼する誠実さ)です。神はその信仰を全ての人に求めておられます。
罪の対義語が義です。罪の状態から義の状態に変えるのは個人個人の信頼関係を回復させる事なのです。それが信仰なのです。
義とされるという事は、キリストと共に生きることで罪の状態から離れて義とされる生き方が出来るようになったと解釈いたします。
十字架で全ての未来の罪の状態まで赦されたとなると解釈すればおかしな事になります。それは万民救済論で、信仰義認の必要がなくなります。
十字架で全ての未来の罪が赦されていると言う考え方は間違いで、多くの方はその思い込みで信じている人が多いです。
罪の状態は自分の意志で解決しないと義とされないと言う事です。その信仰の考え方があれば、当然イエス様の言葉にお従いすることが必然になるわけです。
信じるだけで全ての未来の罪まで赦されると言う人は逆に何もしないでも良いと安心させられて生ぬるい信仰になってしまうわけです。大丈夫あなたはそのままでも救われますよ。死なないです。イエス様があなたの全ての罪の為に十字架に架かってくださいましたから大丈夫です。あなたは救われます。という言葉で安心させられてしまいます。これは蛇の誘惑と同じ事だと思っております。