人の救いは

人の救いは十字架では無く
神との信頼関係回復です。
“御子を信じる者はさばかれない。
信じない者はすでにさばかれている。
神のひとり子の名を
信じなかったからである。”
“御子を信じる者は
永遠のいのちを持っているが、
御子に聞き従わない者は
いのちを見ることがなく、
神の怒りがその上にとどまる。”
ヨハネの福音書 3章 18節36節
こんなことを言うと
多分、多くのキリスト者から
異端だと思われるかもしれない。
しかし、この言葉から明らかに
十字架を信じるから
救われるのではないのです。
「神の御子イエス様を信じ従う
 信仰で救われるのです。」
十字架の御業とは何か?
全人類に対して適応されている
アダムのルール違反と
モーセの律法違反
に対しての罪過(背きの罪、ルール違反)
の代償としての「死罪」を
帳消しにされたのです。
ですが、
人の罪(ハマルティア)は、キリストが
十字架に架けられても
個人個人の罪の状態はそのままです。
十字架では人の罪の状態(心が的外れ状態)
までは変えられないのです。
この人の罪の状態から。「神の義」に変える
事は十字架でなく、イエス様を信じ従う
信仰(信頼関係)によります。
罪の状態から義の状態と変えるのはその人の
意志決定なのです。神の力で赦されたのは
アダムとモーセのルール違反の過去の罪です。
これは神の一方的な完全な恵みと愛です。
しかし、罪の状態までは十字架では赦されず
人の心そのものがイエス様を信じる信仰だけが
その人が義の状態に変わるわけです。
信仰とはギリシャ語でピスティスです。
本来「真実な信頼関係」と言う意味です。
信頼関係とは信じ合える
相互の関係にあります。
キリストを通して神の愛と赦しが
与えられました。罪過の赦し(forgiveness)
を受けてそれに応答するのが信仰です。
救いは無条件では無くて、その人の
信頼関係を回復させようとする応答が
必用なのです。
信じるだけで全ての罪が赦されると言う
のは未来の罪まで赦されていると
信じている人が居ますが
聖書をよく読むと、そうではないのです。
信仰が要求されております。
人は生まれながらにして既に裁かれている
罪の状態にあります。
アダムの違反(パラプトマ)は
帳消しにされましたが、
アダムの心の中の罪(ハマルティア)は
各個人の中にあり続けています。
それは
「神のように自己主権を持ちたい
心の状態」が的外れの罪なのです。
悪魔にそそのかされた「神のように」
と言う言葉に従ってしまったのです。
この罪(的外れ状態と言うハマルティア)
はイエス様の十字架とは関係なく
全人類個人個人の中に存在しております。
人は生まれながらにして
罪の状態にあるのは神であるイエス様と
正しい関係を持っていないからなのです。
自分の意志で神を神として認め崇め
信じ従う人が救いに預かるのです。
多くの人は十字架で救われると
誤解していると思います。
全ての人はイエス様を
信じ従い続ける信仰で救われます。

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