救いは十字架でなく
個人の信仰による。
“実際、律法は御怒りを招くものです。
律法のないところには違反もありません。
そのようなわけで、すべては信仰によるのです。
それは、事が恵みによるようになるためです。
こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、
律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に
倣う人々にも保証されるのです。
アブラハムは、私たちすべての者の父です。”
ローマ人への手紙 4章 15〜16節
多くの方が全く誤解しているのは
十字架で義とされると言う事です。
十字架では義とされません。
十字架ではアダムのルール違反と
モーセの律法違反だけが帳消しに
なりました。
「義」とされるのはその人の
主イエスを信じ従う信仰なのです。
アブラハムが義とされたのは
キリストの十字架の2000年前です。
十字架で義とされた訳では無いのです。
アブラハムはモーセの律法が
制定される430年前の人です。
しかし、アブラハムもアダムのルール違反
による死罪が適応されてました。
その死罪をキリストによって帳消しに
されたという事です。
私達もアブラハムが信じたように、
アブラハムに倣う信仰(信じ従う)を
持つ事で義とされます。
十字架では神の一方的な恵みで
既にアダムの死罪が清算されました。
全世界の死罪が無くなったのです。
これが神の愛と恵みと憐れみです。
しかし、イエス様を信じていない状態では
罪のままで、義とはなっておりません。
イエス様の十字架を信じるから
義とされるわけではなく、
イエス様が私達の創造主として
愛してくださっているから
信じるのです。その愛を十字架で
現わしてくださったのです。
イエス様の約束とは、アブラハムの約束です。
イサクを蘇らせる力があると信じた
アブラハムのように、神は絶対に
約束を守られ私達をも蘇らせてくださる
と信じる故に義としてくださるのです。
多くの方は十字架で義とされるから
私達は何もしなくても信じるだけで
義とされると言う受け身でいますが、
信じる信仰とは積極的に神の約束を信じ、
神を求め、神の実現に生きる人を
義としてくださいます。
一タラント一ミナの人や、招かれても礼服を
身につけない人、油を絶やす5人は、
「義」とされません。
信仰による義とは主の為に生きようと
主に従い神の御心を行う人です。
それは「主の祈り」を悟って
実践しようとする人だと言えます。
信仰者とは、神の国と義を求める人です。