信仰とは選択理論
信仰とは神に従う事ですが
自己感情ではできないです。
敵をも愛せよと言う、神の言葉には、
誰でも、まず感情が許せないのです。
その感情を脇に置いておいて、
イエス様の愛を受けて信じた私達は、
「あなたがおっしゃるなら
そのようにいたしましょう」と
神の御言葉を選択し決意する事が
信仰だという事なのです。
漁師のプロであったペテロが一晩中取れなかった
のに、主は「網を降ろして見よ」と言われました。
諦めていたペテロは
「主がそう言われるならやってみましょう。」
と主の御言葉に従った時に
たくさんの魚が取れたのです。
アブラハムがイサクを捧げる事が出来たのは
信仰で主に従ったからでありますが、
ただ単に言われるままに従っただけでなく
神は必ずイサクを通して子孫の祝福を
すると約束された神の約束を疑わず、
このイサクを必ず蘇らせる力があると
信じたのです。
❶イサクを通しての子孫の約束を、
必ず守ってくださると言う神への絶対的信頼。
❷神は産めないサラから生まれたイサクを
更に蘇らせる奇跡があると信じた。
❸燔祭の捧げものは神が用意してくださる
とイサクに宣言していたアブラハムの信仰告白
これがアブラハムの神の約束を固く信じた故の
行動だったのです。
創世記22章で主はアブラハムに
試練を与えた言います。
アブラハムの信仰が試されたのです。
心で信じるだけでなく
本当に信じているかを試される機会が
与えられたのです。
人は誰でもイエス様を信じた後、
必ず信仰の試練があります。
本当にイエス様を愛しているのか?
イエス様は言われます。
「私を愛するなら私の戒めを守るはずだ」と。
それは「互いに愛し合う」という戒めです。
この戒めを守ろうとするのかどうかで
その人の信仰が試されます。
人との人間関係に平和を生み出そうとする
人だと言えます。その人は「神の国を求める人」
であり神の御心を行う人でもあります。
主の愛を受け、主を愛する応答ゆえに
主の戒めに従う事
これは、自己感情ではなく、
主に従う信仰なのです。
マタイ11:28に「重荷を負うて苦しむ人は休ませてくださる」とありますが、条件があるのです。
それは主と共にくびきを負う事です。
主イエス様の御言葉によって生きる事です。
そうすれば魂の休みが与えられると主は
言われました。
私は、この事をレ・ミゼラブルの物語を
読んで深く悟らされました。シャベールを赦した
ジャン・バルジャンの信仰です。
信仰は主に従う意思決定です。
そこには忍耐が必要です。
そうすれば、聖化され練達されます。
そうして希望が生まれます。
そして希望は失望に終わりません。