礼拝2013年9月15日

2013年9月15日のメッセージ
「らくだが通るには?」
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、
 らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 これを聞いた人々が、
「それでは、だれが救われることができるのですか」
 と尋ねると、イエスは言われた、
「人にはできない事も、神にはできる」。
 ルカによる福音書18:25~
この句節は18節からの話になります。ある役人が
「何をすれば永遠の命の受けれるか?」
とイエスに質問します。
幼い時から、戒めを守ることはしてきた、
しかし、大金持ちであった役人に、財産をみな
手放しなさい、そして貧しい人に施しなさい。
そうすれば天に宝を持つでしょう。
そして、イエスに従ってきなさいと
言われました。しかし、彼は財産が惜しいゆえに、
悲しんだとあります。その後の御言葉です。
この役人は、神では無くて気づかぬ内に財産を
頼りにしていました。イエス様は財産をあてにせず
神に頼る生き方を迫られたのです。
富と神、両方同時に仕える事は出来ないのです。
「2足のわらじは履けない」ということです。
財産を全て貧しい人々に分け与えなさい。
それは天に報いがあると言われただけで、
これは単なる自己犠牲や自己放棄。清貧の命令でなく、
勿論、献金せよと言う命令でもないのです。
イエス様は道です。イエス様は言われました。
「私が道であり真理であり真理である。私によらなけ
れば誰も父の元に行くことはできない」(ヨハネ14:6)
イエス様は羊の門です。そこを通らないと救いは無い。
そして羊のために命を捨てるとおっしゃいました。
それが贖いの十字架です。イエス様が救いの道なのです。
また、ユダヤ人の考え方には、金持ちは神様の祝福を
受けている人だと認識されているところがありました。
ある役人のその悲しんだ様子を見て、イエス様は、
お金持ちが救われるのは、らくだが針の穴を通るより
難しいと言われました。(金持ちだから入れるという
人々の思い込みを払拭しています。) 人々は
「それでは誰が救われるのか」と聞くとイエス様は
「神には何でもできる」。その答えには、
金持ちだから救われないという、言葉を打ち消された
のです。救いは神の力によるものだと言うことなのです。
「何をすれば命が与えられる?」と言う質問に対して、
自分が何かをしたゆえに救われるのはなくてただ
イエス様に従い習うだけであると言うことなのです。
イエス様に従うと言うことは、神の力です、神の国を
一番にできる恵みと力が聖霊によって支配されるのです。
まず神の国を一番に求める決断力を持つ事です。
その決断によって犠牲にしたものは、必ずこの世で
幾倍もの祝福を受けると約束されます。この世でも更に
必要な物がちゃんと与えられるのです。そしてその上に
永遠の命が受けられるのです。
まず神の国と義を求めなさい、そうすれば必要な物は
主が備えて与えてくださいます。神の国を目指し一番
にするなら何も心配する必要は無いのです。
(マタイ福音書6:33,34)
私達神に造られた人間は自己実現のために生きるのでは
無く、神の実現に生きるという事で生きる価値が神から
見出されます。神が人を造ったのは神の目的によるもの
です。ゆえに創造者に逆らって生きるなら、それは存在
価値がなくなるのです。造られた人間は、造った方に従
うのが神の義なのです。
日本人は物質的には裕福です。しかし、お金や名誉、
地位を一番に考え、悪魔が喜ぶような社会にコントロール
されてしまいます。神に頼り、神の戒め通りに生きるなら
素晴らしい世界が開かれ自由になりこの世に支配されず
勝利します。前回の半澤直樹の最後、近藤が自分を守る
ために友を裏切るシーンで終わりましたが、残念でなり
ません。
かく言う私も、神の国のために200万円の借金を持ち
ながらも公務員を辞職しました。しかし、神は必要な物
(衣食住)を与えて下さり、今は普通に生活ができて
おります。もちろん、借金も返済出来ました。
真の神様に出会えて感謝で一杯です。