礼拝2013年7月28日

「英  雄」
谷村新司さんの歌「英雄」のなかの一句節
「寂しさを捨て切れたなら英雄になる。」

人は皆、寂しさゆえ群れたがる。不道理なことがあったとしても、群れに自分を認めて欲しいがゆえに自分を守るために不道理を正当化する。自分をみんなから愛されたいがゆえに、自分の損得勘定を考えて大切なことを見失ってしまうのです。

最近、「斎藤さん2」という観月ありささん主演のドラマを見ました。まさしく、この方は英雄だと思いました。自分が孤立して、みんなから嫌われても大切な事を守りたい。本当に強い人は自分を犠牲にしてでも守るべき正しさを分かっている人です。弱い人は、自分を守るために他を犠牲にするのです。私も強くありたい。人の評価に左右されない強い自分でありたい。
強くなる秘訣を紹介しましょう。復活された主イエス様は私達に「平安あれ」と促されました。神の平安は私達を強くします。誰かに媚を得る必要もなく神様の義を求めるなら、神様が私達を義として下さるのです。神の義を求める者には、必要な物は与えてくださると神は約束されます。そこに、強さが現れます。何故なら、この宇宙一強いお方が、認めて愛してくれるのですから。人は神の愛を知って受けてこそ強くなれるのです。そうでないと、この世の不条理に押し流されてしまうのです。神様の愛を知らない結果が、いじめの問題に繋がっていると言えます。いじめは、利己主義が温床となるのです。悪いこととは知りながらも、自分を守るために悪を是認しているのです。主イエス様は言われました。

「自分の為に命を守ろうとする者はそれを失い、自分の命を捨てるものはそれを見出すであろう。」
主イエス様は、英雄のお手本です。ユダヤ人の権力者は自分たちは自分たちのプライドを守るゆえに主イエス様をつぶしにかかりました。なんと、主イエス様を十字架につけたのは神を信じ教えている指導者や教師だったのです。しかし、これが私達全人類に罪の赦しを得させる為の身代わりとして十字架を背負う犠牲を私達のために受けられたのです。これが主イエス様の英雄たる所以です。神の子で有りながら死ぬ苦しみを受けるために肉体を所有された主イエス様。人々に愛するという事の手本をお示しなりました。これが神の愛であり英雄です。彼もこの地上においては父の愛に自分の命を委ねて任務を全うされたのです。愛は赦しから始まります。赦された分量、人は愛します。

一ヨハネの手紙4:16~18
わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。
恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

ローマ8:37~39
しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

「豊かに蒔く者」
コリント人への第2の手紙9:6~8
わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。

種を蒔くということは、その種の花を見たい、実を収穫したいと言う目的の故です。蒔く事には意味があり、目標があります。私たちの目標は神様に喜ばれる実を結びたいと言うことになります。そして実を見るための小さな小さな作業ですが、それが無くては実を見る事はけして出来ません。自分の成果を求めるのではなく、神の成果を見い出す事が大切です。そうする事によって神様は必要な力を私達に与えてくださいます。私たちの存在理由は神にあるからです。私達の考えを絶対とし、私達が自ら神になってはいけません。神の目的に沿うなら、私たちに存在価値があるのです。

家政婦さんが、家の主人に喜ばれようとして掃除をするなら良い掃除ができます。しかし、仕方なく無理やりさせられているならその掃除はいい加減なものになります。私も学生の時、普段は散らかっている部屋が、彼女が来るとなると徹底的に掃除をします。彼女にいい印象を与えたいからです。誰かに喜ばれたいと言う心になった時、本当に良い仕事ができるようになり、更に主人も喜んでくれるんです。

そこで、私たちの主である神様に喜んで貰いたいから、小さい事でも、あの事もこの事もしようと自ら進んで良いことをするなら必ず神様は、それをする力を与えて、報いてくださるのです。誰かの為に良いことをする事には限度があります。自分に余裕があれば少しは人のために何かをしてあげれるでしょう。ですが、人は誰でも施した事に見返りが無ければそう長くは続きません。しかし、誰にも見返りを求めないで善を施すなら、神様が必ずその見返りを与えてくださいます。人は、蒔いたとおりに刈り取るのです。

6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。                        ガラテヤ人への手紙6:7~9

私たちは神様の手の中にあります。いくら神様を信じなくても、神様の手の中で神様を無視しているだけです。しかし神様の目的に沿って種を蒔くなら、その種を恵みの中で蒔く力が与えられて良い実を結ぶようにしてくださるのです。そのために、神様の戒めを守る事です。「神を愛し敬い、隣人を愛する」これを大切にして、小さな小さな種蒔き(善)であったとしても、実践するなら、実を結ばないものとはならないでしょう。豊かに蒔くのです。豊かに蒔くなら豊かに実ることでしょう。

信仰とは?  

ヘブル人への手紙11:1

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

日本には昔から「イワシの頭も信心から」と言う、ことわざがあります。柊を鰯の頭に挿して玄間の上に付けることで鬼を払う習慣で、つまらないものでも信じれば尊い信仰対象になるみたいな感じのことわざです。辞書には、信仰とは十分な理由証拠が有るという知性の判断によって生じる確信である。とあります。信じるに値する根拠、証拠があり、それは雲を掴むような事柄ではなく確信に至る裏付け、納得のいく理論から、冷静に判断して信じることなのです。残念ながら鰯の頭は信仰にならないわけです。

キリスト信仰は、聖書に記しているキリストの預言とその歴史的事実に基づくものです。そして信じる人が聖書の通りにその事実を体験するという個人的な確信に及ぶのです。

ある、無神論学者が聖書のアラを探そうと調べた結果、信じざるおえなくなったという話を聞いた事があります。神は存在しないと言う根拠や証拠が無いのです。多くの人は神が存在しないと根拠無く信じている事になります。

さて、神への信仰の一つとして、神の人間に対する約束があります。その約束とは人類救済です。聖書の目的は一貫して救いについて約束しております。この約束に信憑性があるから信じるというのが信仰になります。そして、神への信頼を確信する事です。信仰とは神との信頼関係の中で大きくなります。すなわち「神は絶対にこの私を悪いようにはしない。私の事を命を掛けて愛してくださっている。」と神を良き方だと確信することです。これは個人的な聖霊の働きによるものです。

神を真実に求める人は神から来る聖霊があなたを確信へと導きます。信仰はそこから生まれてくるものなのです。神を求める信念は自分自身から出さなければなりませんが、神は信念を確信へと変えて下さいます。それは神がくださる特別な恵みになるのです。それが信仰になっていくのです。

信仰とは神の賜物ですが、求める人に必ず与えられます。どうぞ、信仰を求めて祈ってみてください。信仰は恐れを取り除き、自由になり、神の平安があなたを支配します。