礼拝2013年9月22日

2013年9月22日のメッセージ
「律法の要約」                                               
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、
人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
 マタイによる福音書7:12
私は外で植木の仕事をする日は必ず飲み物等を買いに
コンビニによく寄ります。特にセブンイレブンの珈琲は
安くて美味しいのでお気に入りです。
ある日、コンビニの駐車場でゴミ箱があるのにそこら中に
捨てている若者を見ました。その子に笑顔でこう言いました。
「自分の家にゴミを捨てられたら君はどう思う?」
「嫌だよね~」そうしたら、ゴミを拾ってゴミ箱に入れて
くれました。その子に注意する人は無かったのでしょう。
自分の為に注意してくれる人がいればありがたいですよね。
あるユダヤ人でない人が
ユダヤ人の著名な学者ヒルレルに質問しました。
「私が片足で立っている間に律法の全てを教えて下さい。」
「あなた自身の憎むことを、あなたの隣人にしてはならない
これが律法の全てで、他の言葉は注釈である」と答えました。
トビト書4:15にも「あなたの憎むことを誰にもしてはならない」
とあります。
これらは非常に消極的なとらえ方であると言えます。
常識的であり、何もしないでいれば良いと言うことになって
しまいます。
しかしイエス様は、より積極的な内容で語られました。
11節では天の父は求めてくるものに、良い物を与えられると言う
人との関わりの積極性を示しておられます。そのように
私達にも積極的な対人関係の善を要求されているのです。
それは天に宝を蓄えることであり(マタイ6:20)
天国においての報いを得るように勧めておられるのです。
この黄金率(ゴールデンルール)は山上の垂訓の総まとめです。
(マタイ5章からの内容)これが、聖書全体を示す要約であり、
イエス様が積極的な対神関係、対人関係を持つ事によって
律法の本来の目的に沿うように教えられたのです。
聖書は人間のマニュアルみたいな物です。取り扱い方を
間違うと正常な動作がのぞめないのです。
要するに聖書の教えるところは
自分が愛されたいなら、積極的に人を愛してゆきなさい。
そして自分のして欲しいと思う事を、他人にしていくのです。
対人関係を積極的な善を持って働きかけてゆくのです。
人に赦してもらいたいなら、まずあなたが赦しなさい。
人から愛されたいなら、あなたから愛しなさい。
自分が認められたいなら、相手を認めなさい。
自分が理解されたいなら、あなたが理解して上げなさい。
自分が尊敬されたいなら、相手を尊敬し、
自分が信頼されたいなら、相手を信頼し、
相手と平和を保ちたいなら、自分から平和を作り出します。
私達はこの力が与えられるように祈らなければなりません。
ついつい、人は自分を正当化し自分を固守しようとして相手に
要求し相手の所為にしがちです。そこで相手に要求する事を、
自分に要求するのです。自分のいたらなさを認めるのです。
私も、相手と仲違いした時に、まず相手の悪い事だけを主張せず
自分の悪かったところを謝ります。自分が悪い事を認めるのは
悔しい事かもしれません。しかし、謝ってほしいと願うなら
相手が怒っていることに対して謝るべきだと思います。人間は
完璧ではありません。必ず失敗するものです。しかし、失敗を修正
できる人は幸いです。
イエス様の十字架の愛に習い、平和を造り出すために自分を
犠牲にすることが求められているのです。
「自分の十字架を背負う」とはそういうことなのです。
愛するとは、自分が憎まれても、その人を憎み返さずにその人の
有益を求め、神が愛してくださったその人を受け入れることです。
ある人が言いました。「愛の反対は憎しみでなく、無関心である」。
何も考えないのが愛の欠落であり、積極的に善を持って相手と
関わってゆく事が愛の動機です。
聖書は言います
神があなたを愛されたように、あなた方も愛し合いなさい。
最後に、パウロもこのように語りました。
互に愛し合うことの外は、
 何人にも借りがあってはならない。
 人を愛する者は、律法を全うするのである。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、
 そのほかに、どんな戒めがあっても、結局
「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」
というこの言葉に帰する。
愛は隣り人に害を加えることはない。
だから、愛は律法を完成するものである。
              ロ-マ人への手紙13:8~10