礼拝2014年2月2日

2014年2月2日のメッセージ
真の礼拝者シリーズ
②他人を裁くな!
さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、
あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、   
自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』
などとどうして言うのですか。見なさい、
自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、
ちりを取り除くことができます。
                     マタイによる福音書7:1~5
ここで言う「裁いてはいけない」と言うのは、意味なく人の
上げ足をとったり、自分を正当化する為に相手を批判したり、
相手を傷つけるような事をしてはいけませんと言う意味です。
パリサイ人や律法学者のように、自分たちがさぞ偉いかのよ
うに無情に人を裁いていく様子がそれです。
もちろん、その後の御言葉にあるように、偽預言者を警戒
しなさい、聖なるものを犬にやるな、と批判することも神は
大切な部分として教えております。対人関係を保つためにも
警告は必要です。日本人は事勿れ主義の中であまり他人に干
渉しません。分かっていても目をつぶっていることが多いの
です。お互い様だと言うので寛容になれる事は良いと思いま
すが、いざこざを避けるために見て見ぬふりも多いでしょう。
際たる悪がいじめですね。
人は、自分を正当化するために人を批判し自分の正しさをア
ピールします。また、自分の権威を保つために相手の所為に
して他人を恐ろしいまでに裁きだすのです。
相手の事情を全く配慮せずに自分の基準で裁いていく、自分
の正しさは相手に通用するとは限りません。他人を裁くあな
たは自分の基準で人を判断しているのです。その人はいつの
間にか自分が神様になっているんですね。しかし、神は最後
にはあなたを裁かれる時が来るのです。
神様は「互いに赦し合いなさい」と言われました。神様は私
たちを造り生んだ本当の親です。子を持つ親の気持ちになれ
ばわかりますが、兄弟げんかの絶えない兄弟に願う事は仲良
くしてくれることです。父親である神様もそのように見てい
るわけです。
私が子供の時、弟と良く兄弟喧嘩をしましたが、母親はいつ
も「あんたら2人とも悪い」でした。「お前が悪い!いいや
お兄ちゃんの方が悪い!」との言い合いでした。
結局いつも、母親はお兄ちゃんだからと言う事で、私が謝っ
て終わらされていました。おかげで兄貴は損だが、強いほう
が謝れば和解できると言う方程式がいつの間にか私の心に
「先に謝る人が強い人なんだ」と言い聞かせておりました。
おかしなもので先に謝ると、必ず相手も謝りますね。
神様も親心として同じなのです。まず私たちは神様の前では
すべて不完全な者として誰にも裁く権利を与えていません。
不完全な者同士は赦しあうことしか出来ないのです。裁き合
うことでは平和は訪れませんが、赦し合うなら平安が訪れる
のです。
私たちの罪(不完全さ)はアダム以来、全人類に課せられて
います。その報酬は「死」です。肉体の死では無く、霊魂の
永遠の滅びです。死を選んだのはアダムなのです。神の言葉
を無視したのです。私たちはそのアダムの子孫なので全てに
死が課せられたのです。その死を御子イエスキリストの命と
引き換えに赦されたのです。
先ず神が、キリストのゆえに裁かないと言われたのです。
神が私達を裁かれないと言うなら私たちは誰を裁く事ができ
るでしょうか?私たちが神より偉いのでしょうか?自分の罪
が赦された事を知ったとき、人を裁く事ができなくなってし
まうのです。
神が人を裁かないと言うのに、私たちが人を裁くとはこれは
有り得ないことです。私たちは皆赦された罪人、罪人同士が
裁き合うのは滑稽な事です。私たちに託された詔はただ「私
が愛したように、互いに愛し合いなさい」「私が赦したよう
に互いに赦し合いなさい」
神が私たちをキリストの死のゆえに赦してくださっている、
この深い愛を知り、自分の罪を赦された恵みを知ったなら、
人の為に良いアプローチができるものなのです。目の梁を
取り除くとはそういうことです。
PS.赦すとは、その人の行った犯罪を見逃す事では無く、その
人が謝罪するなら憎しみや怒りの感情を放棄し、水に流すと
言うことです。神の愛で赦すのです。神の法で赦されても、
この世の中で生活する以上、この世の法律で服さなければい
けませんのでご注意ください。